強迫性障害の娘と共に生きる母親としての私の大事な1日

日常

 娘が強迫性障害と診断を受けたのは、今から6年前の娘が17歳の時でした。

当時はまだ今ほど強迫性障害という言葉が世の中に知られておらず、娘に何が起きているのか分からず振り返れば発症初期の対応としては間違いばかりを繰り返し悪化させる結果になったように思います。
 そこから今日までの6年間は本当に辛く苦しく試行錯誤の日々をあっという間に過ごしてきたように思います。
 今もなおこの病気と闘いながら1日1日を大事に生きている真っただ中です。
本当なら今日に至る経緯を順を追って詳しく書くところから始めた方がいいのかなとは思うのですが、
今日という大事な1日に気付いた事をとりあえず書いておこうと思いました。
 理由は、私の体験でもしかしたら今苦しんだり辛い思いをしているのにそれが何か分からずどうしたらいいのかと途方に暮れている人に何らかの役に立てたらいいなと思ったからです。
 私自身が今日改めて気持ちが少し楽になる記事に出会ったのでそう思いました。
 今この瞬間も辛く苦しい時間を過ごしている本人やそれを支えている家族の人に少しでも楽になるきっかけになれれば幸いです。

どうして私は普通のことができないのだろう

 娘が強迫性障害を発症して以降ずっと願い口にし続けている言葉です。

 この言葉をこれまで散々そばで聞いてきて、その度に「普通って何?」と何度も何度も娘を責めてきました。人と比べるから辛いんじゃないのか?そもそも何が普通なの??と。
 娘が10歳の時に離婚しシングルマザーとして必死にやってきて人と比べてそれほど不自由な暮らしをさせた覚えもないし、むしろ贅沢をさせて来たつもりでした。自分の事を全部後回しにしてでも。
 私が考える「普通」の事と娘が考える「普通のこと」は全く違ったんですね。そこに本当に気付けなかった、つい最近まで。

 普通のこと

 同じように強迫性障害に悩み苦しみ日々闘い続けている女性の話を今日たまたま読んで気付いたんですが、いろんな強迫が常に頭の中を支配している状態で生きていると日常の生活そのものが苦痛でしんどくて、それこそ息をするのも辛いんだってことなんですね。
 何をしていても辛く苦しい。「普通のこと」は誰かと比べてどうのこうのっていう事ではなく、何も考えなくていい「無」の状態でいられるという事なんだろうなとやっと少し分かった気がしました。
 今までいろいろ調べたり病院に行ったりいろんな人に話を聞いたり本を読んだりなどなど、たくさんたくさんこの病気の事を知ろうとしてきたけれど、娘の状態と近い感じの体験をしている人の話はとても有難かったです。

 まとめ

 「普通のことが普通にできない」という言葉の意味、強迫性障害に苦しむ本人にとっては強迫という決して抗えない強い正体不明の「何か」が消えてなくなる状態の事を言っていたんですね。
 その事に気付けただけでも今日という1日には意味がある、そう思いました。

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